全日本漢詩連盟 会長 鷲野正明
まず、私の一首から。
初めて訪れた場所なのに、前に来たことがあるような、見たことがあるような、と既視感をいだくことがよくあります。この既視感を漢詩でどう表現すればよいのか。また、記憶も物もすべて忘れてしまう喪失感をどう詠えばよいのか、という思いから作った詩です。初出は2025年諸橋轍次博士記念漢詩大会の作品集です。
春盡 春尽く
始逢忽訝昔逢君 始めて逢ふて 忽ち訝る 昔君に逢ひしかと
前世或同看彩雲 前世 或ひは同に彩雲を看しかと
欲盡晩春閑獨立 尽きんと欲する晩春 閑かに独り立てば
黃昏藤下紫花薰 黄昏 藤下 紫花薫る
「君」と出逢ったことが運命のように思ったのに、しかし今は別れてしまい、夕暮れの藤の花の香るもと、独り佇んでいる、という内容です。結句の「黃昏藤下紫花」は白楽天の「三月三十日慈恩寺に題す」の結句「紫藤花下漸く黃昏」を踏まえています。
作詩のとき気をつけていることは、詩の主人公がどういう状況で、どのような情況や風景の中にいるのか、読者の目の前に具体的な情景が見えるかどうか、を何度も推敲して確かめています。
「思い」を直接言ったり、行動を時系列で書いたりするのは、説明であり報告です。「思い」はあからさまに言わず、読者と共有できる風景・情景を画いて感じ取ってもらう、これが詩にとって大切なことだと思います。
常々思っていることは、詩には、風と光、色彩、香りがなければならない、ということです。これは決して、漢字の「風」「光」を用いたり、「色彩語」を使ったり、「芳香」を細かに述べる、というのではありません。詩の中から、おのずからそれらが立ち現れるように風景を描く、あるいは情景を描く、ということです。
たとえば杜甫の「春望」の冒頭から、どのような風景が見えるでしょうか。
國破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
瓦礫だらけになった街、しかし暖かな春がやってきて、深々と草木が茂っています。色彩語こそ使っていませんが、緑があふれ、青空も見えます。色彩を読み取ること、これが詩を読む時のポイントで、また詩を作るにコツになります。松尾芭蕉は『おくの細道』の平泉のくだりで、杜甫の「春望」を踏まえながら、
國破れて山河あり、城春にして草靑みたり と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や兵どもが夢の跡
と言います。杜甫の詩に色彩語はありませんが、芭蕉は「草青みたり」と、「草の青さ」を読み取っています。一流の詩人はやはり違うのだな、と初めて読んだときに感じたものです。
この「春望」の首聯で「山河在り」「春」「草木深し」とあれば、花や鳥も想像できます。そこで杜甫は頷聯で次のように言います。
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
首聯から予測される流れです。首聯の人事と自然とを対比する詠い方を承けています。そして頸聯では、より人事に重きを置いて、
烽火連三月 烽火 三月に連なり
家書抵萬金 家書 万金に抵る
と情景を描き、尾聯で
白頭搔更短 白頭 搔けば更に短く
渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す
と、自分が人事に関われないことを嘆いて結びます。語意・句意が連絡し合いながら全体が構成されていることがよく分かります。
杜甫の詩は、1,500首ほどありますが、いずれも写実に優れ、対句が生きいきしていて作詩の勉強になります。「春望」の詩の「花」は何の花か具体的には分かりませんが、春を彩る花々であり、「鳥」も何の鳥かは特定できません。春に咲く花、春に鳴く鳥は、読者それぞれの経験によって想像できます。読者が想像を膨らませて読めば、花の香りも漂ってきます。鳥の心地よい鳴き声も聞こえてきます。美しい春の風景が目の前に見えてきます。
「春望」は、その美しさのなかで、何度も現実世界に引き戻されます。この詩のテーマが、人の世の無常と無情にあるからです。芭蕉の句も、人の世の無常を詠いますので、杜甫の詩と相通じるところがあります。
松尾芭蕉のように詩的経験の豊富な人は、漢詩の一句から、風や光、色彩、香りを感じ取ることができたでしょう。詩的経験が豊富ではない私は、努めて、詩から風や光、色彩、香りを読み取るようにしています。そして作詩するときには、風景描写・情景描写を、より具体的に描くように、風景なり情景なりが目の前に見えるように工夫しています。
絵を描くとき、まずスケッチをします。いろいろな物を、何度も描いて、形の捉え方を得得し、形の細部を確認します。そのスケッチをもとに全体の画面を構成し、一幅の作品に仕立てます。作詩も同じです。風景・情景をよく観察して、まず一句作ってみる。後々のために風景を写真に撮っておきます。風景を何気なく撮っても、実はそれが自分の気に入っている所で、詩にしようとする風景も自分の心に触れたものを詠いますから、写真があると句作りにとても役に立ちます。
作句するには詩語をたくさん知っておく必要がありますが、無理に覚えようとはしません。スケッチを繰り返し、表現に行きづまったら古典の名作を読んで、同じ風景を探す、すると、自然に詩語も覚えられます。平仄や韻も、無理に覚えようとはしません。年を取ってもの覚えが悪くなりましたから、辞書をいつもそばに置いて確かめるようにしています。何度も引いているうちに、なんとなく覚えてしまいます。
詩の構成には起承転結を活用しますが、先に見た杜甫の「春望」も二句一聯ごとに、つまり首聯・頷聯・頸聯・尾聯が、起・承・転・結になっています。絶句を作るとき、転句をどうすればよいか、結句のまとめ方がうまくいかない、ということで悩みますが、これも古典の名作を読んで、構成の仕方を学びます。
先生や先輩にコツを教えてもらっても、それは決して身につきません。自分で考えて作り、古典を学び、それを何度も繰り返し、最終的に作詩のコツを自分で会得しなければ、本当に作れるようにはなりません。習い事は何でもそうです。添削してもらって良い詩になった、と喜んでそれで終わり、というのでは永遠に良い詩は作れません。
最後に蛇足を。冒頭に紹介した私の詩の前半にとても艶っぽい表現があります。気づきましたか?
2025年7月25日